九十歳の今日まで、念珠作り一筋に歩んできた喜芳さん。「京の名工」と評される匠の技が生まれた背景には、幼い頃、祖母に聞かされてきた一つの言葉があった。
※ 月刊誌「致知(2010/6発行)」に掲載されたインタビューを再掲しています。
九十歳の現在も念珠作りに励まれているそうですが、拝見したところ非常に細かいお仕事ですね。
喜芳:まぁ、おかげさまで目もいいし、耳もそんなに悪いことはありません。仕事上のことはなんでもまだはっきり覚えてますからね。
耳がうずいたりすると周りの人に手伝ってもらったりもしますが、毎日午後の一時から五時半まで、皆と一緒に気張って(頑張って)ますんや。午前中はご飯拵えになんのかのとありますからこの昼下がりが一番落ち着いた時間ですね。
いつ頃からそういう生活を?
喜芳:もう何十年になりますかなぁ。小さい時分からずうっとこういう生活で、小学校を卒業して奉公した時から、あんまり変わりませんわ。
これまでどおりにお仕事を。
喜芳:この前に座ったらね、衰える、ということはありませんわ。その代わり、指とか腕とかがくたびれてきて、痺れたりしますから、膏薬を貼ったりしながらやってますけど。
年数を重ねるほど、技術は向上していくものでしょうか。
喜芳:それは向上していきますねえ。十年ごとくらいに。
お得意先にいくと、そこの社長さんから「ああせい、こうせい」と言われる。下手な事をやったら「こんな仕事をして!」と怒られますでしょ。そのたんびに腕が上がっていきますね。
あぁ、自分はこれがええと思ってやったが、先方ではそれが気に入らん。やっぱり上には上があるもんやと思いながら仕事をしてたら、だかだん自分の腕も上がってきますし、見る目も違ってくる。
商売をされてる社長さんはみんな、しっかりと見られますわ。お寺さんでもそうですね。ちょっとした一言でも、それが元でズンズン上手になっていく。
だから、いまはもう、欠点のない仕事ができますね。
でも、十三歳の自分から七十七年もやってたら、自然ともう身についてしまいますわ(笑)。染み込む、といいますかねぇ。
それにしても、この道七十七年とは凄いですね。
喜芳:私の育ての親だった祖母は、西陣織の職人として生計を立てていたんですが、「この仕事は暇な時期がストーンとくるから、そういう波がない手仕事を覚えた方がええ」と言わはって、小学校三年か四年頃から、数珠屋さん回りをしたんです。
祖母からは「私が生きてたら、あんたは上の学校へ行って、法律の勉強をしてほしい」と言われました。祖母が奉公にでていた時分、祖母の両親が亡くなって、所有地だった山や田地田畑がある人に取られてしまった。祖母はそれをとても残念がっていて、「あの土地を半分でも取り戻せたら食べていけるから、そのために勉強してほしい」と言いました。
また一方で、こうも言うんです。「私が早く死んだら、数珠屋さんに奉公して仕事を習いなさい。数珠の作り方を覚えておけば、ちゃんと食べていける。生活していけるようになる」 と。
そしたら私が小学六年生の時、祖母が事故で亡くなって、その言い付けどおり、数珠屋さんへ奉公したんです。まだ十三歳の時でしたが、私は一途で、他の事はなんにも考えませんでしたね。
お祖母様は、ご自分に万が一のことがあった時のこともちゃんと考えておられたのですね。
喜芳:そうですねぇ。本当にありがたいことだと思います。
奉公はそれから五年間したんですが、その時分の苦労といったら、働く時間が十六時間ぐらいあったことです。朝八時から晩の十二時頃までぶっ通しで、休憩なんてものはない。 手編みをしている手は荒れてくるし、年がら年中血だらけでした。でも、もう仕事ができせん、と言ったところで、主人は聞いてくれるはずもない。そんなもん、誰かて割れるもんや、てなもんですわ。
まだ十三歳の時ですよねぇ…。
喜芳:はい。でも、その主人が上手に仕事をされますから、それを見て習って、自分もぼちぼち真似をしていったんですね。まぁ、習うといっても、一つか二つ急所を教えてもろたら、あとの技術的なことは、全部自分一人で考えてやる。そういう毎日でした。
ご主人は厳しい方でしたか。
喜芳:それが、私は一回も叱られたことがないんですよ。丁稚さんやらが「これだけの仕事、一日も掛かってしてるんやろか」と私の仕事を貶しますやろ。 そしたら反対に、丁稚さんが怒られよるんです。
大事にされていたんですね。
喜芳:私は十四歳頃から、もう人に教えたりしてましたしね。これまで何百人と人を教えてきましたが、いまでも教えるのは上手にやりますよ。
何かコツがあるのですか?
喜芳:いや、なかなか人は覚えてはくれませんけどね。
徳永家康じゃないけど、気長に「鳴くまで待とうほととぎす」で教えていきますからね。教わる人かて、そんなに喧しく言われたら覚えられませんわ。
一つ覚えはったら、また次を教えていく、という感じです。でも、奉公だと月給も安いから、一日働いても電車賃とお風呂代を払えば、手元にいくらも残りません。 それで奉公先を出て、他の数珠屋さんに「仕事をいただきたい」と訪ねていったんです。 そしたら、そこの社長がまた、うるっさい人でねぇ。前の奉公先では全然怒られんかったけど、今度は織田信長みたいな人(笑)。
「バカモーンッ!」「何してけつかんねん!」と悪しざまに怒鳴り散らされる。でも、それに十年くらい耐えてきたら、グンと腕も上がりましたね。
しかし、よく十年も辛棒されましたね。
喜芳:いや、私、そういう点ではびくともせえへんのですわ。
初めこそ、なんであんなに怒らはるんやろうと思いましたけど、悲しいとか、いややな、という思いはしなかったですね。 私みたいなもんを、ようこれだけ怒ってくれはるなぁ、こんなしょうもない人間を、力入れて怒ってくれはるなぁ、と逆にありがたく感じるようになりました。
それでしばらくして分かったんですが、その社長が怒らない時は、逆に機嫌が悪いんですよ。
あぁ、そうだったんですか。
喜芳:そう、怒っはると機嫌がいい。それに気がついて私が嬉しそうな顔をしていたら「わしがこんなに怒ってるのに、おまえはなんで笑ってんのや!!」と言われたくらいで(笑)。
そしたら、しまいに自分もあほくさくなられたんですかね。ある時期から、私を全然怒らないようになりました。 その社長は口は悪いんですが、どこか優しいところがあるんです。それだから耐えてこられたんやね。
どんな点で優しさを?
喜芳:仕事を出してやらんと、私が食べていかれんことをよく分かって、仕事は絶えずくださる。
念珠に使う材料も十二分に用意して、余り過ぎるくらいでした。仕事が終わっても、「この糸どれだけ使った?」とか、細かいことは全然言われません。 それで私もいい仕事をさせてもらうことができました。
とにかく私がこうして今日あるのは、その喧し屋の社長のおかげですわ。十年間、ほんまによう怒り続けてくれはったと思います。
喜芳:けれども、いくら頑張っても頑張っても、生活は楽になりませんでした。いまでも食べていくのがようやっとで、これだけ一所懸命働いてきても、創作念珠なんかをやらせてもらえるようになったのは、五、六年前からのことです。
それと、私のしてきた苦労といえば、日々の仕事に対して自分なりに工夫を重ねてきたことですね。 もう五十年以上前になりますかねぇ。手編みで念珠を作っているとどうしても手が切れて血だらけになりますから、これはかなわんなぁ、と思っていたんです。
でもある時に、そうや、西陣織では羽織の紐や帯締めを組み台で組んではる。あれを真似て数珠作りにも取り入れられたらいいな、と思いました。
それで、自分で特別に組み台へを考案して試してみたら、手編みよりもきれいに仕上がったんです。 いまでもほかの数珠屋さんは、ほとんどが手編みですよ。私らのように、組み台を作っているところは少ないと思います。
でもそんなことを思いついたのも、一所懸命仕事をやってきたおかげでしょうね。
これまでで、とりわけ心に残っているお仕事はありますか?
喜芳:私が三十代の頃、遠くのあるお得意先から「二週間で一万三千連の念珠を作ってほしい」と言われたことがありました。一万三千といえば、大変な数です。
でも当時は一緒にやっている人も五人いましたし、一人が一日に二百か三百仕上げたらできると思って、「任してください」と二つ返事をしたんです。
でも、これにはあの喧し屋の社長も驚いて、「そんな返事の仕方をして、大丈夫なんか?」と言わはりますからね。「でも社長。そんなことようしませんわ、と言って渋々引き受けたら、できますか。及び腰ではできるもんもできませんわ」と答えましてね(笑)。これには返す言葉もなかったようで、全面的に任してくださいました。
その間、他の数珠屋さんからは「陣中見舞い」といって、菓子とか果物が次々と届きました。できんかったら、京都の名折れになるさかいに、どうか頑張ってくれと。
私も「できる」と言ったからには、どんなことをしてでもやろう、と。それで期日どおりにちゃんと仕上げて、板倉に頼めばなんでもできる、という評判をとったんです。
あぁ、見事にやり終えた。
喜芳:でも現場はすごかったですよ。私も息子のことを考えてたらできひんから、よそへ預けてね。一緒にしていた人らも自分の家に帰らず泊まり込んでやってくれました。
二週間、皆ろくに睡眠もとっていない。あんなこと、いま考えたらようできたもんやと思います。
でも、それでお金が儲かったかといえば、無理を言って糸を染めさせてもらった染め屋さんに、借金ができただけのことでしてね(笑)。
でも評判はとった。
喜芳:そう、評判をとった。いや、評判と信頼をとった。「板倉の数珠」というたら、それで通るようになりましたからね。
だからやっぱり、人間は度胸が大事やね。度胸がなかったら、そんなこと引き受けられやしません。度胸と努力。
それから「心棒の”棒”を折るな」ということですわ。
あぁ、いい言葉ですね。
喜芳:心棒の棒を折ったら何もできやしません。そのことを亡くなった祖母が教えてくれましてね。
もう、どんなことがあっても心棒しようと。それだけはずうっと思ってました。私は祖母の言うことはなんでも心から信じるんですね。
ただ、私が大きくなったらお金儲けして、祖母や祖父に楽をさせてあげようと思ってたのにね。 早くに死に別れて、私はいまでもそれが残念でならんのです。
お祖母様が亡くなられた時はどんなお気持ちでした?
喜芳:三年くらい泣いてましたね。
ご飯を食べようと思っても、思わず涙が出てしまう。
その悲しみも日がたつにつれて自然と薄れていきましたけど、祖母の話をしない日はいまだにありませんね。 何かといったら、祖母のことを話していますよ。
毎日お仕事に向かうその気力はどこから湧いてくるのですか。
喜芳:自分に自信があるというか、誰にも負けないいい仕事ができるという信念があるからだと思いますね。
私のする仕事に勝つ人はおへん。いつもそう思ってやっていますよ。
そう言い切れるのも、また凄いですね。
喜芳:えぇ、でもはっきりと言い切れますわ。どんな難しい数珠でも、全部頭の中に入ってますからね。
なんせ、もう七十七年もやってるんですから。
昔の人はよく言うたもんやと思いますよ。「あほの一つ覚え」ってそのまま私のことや(笑)。
いずれにしても、人間はやっぱり信念を持つことですね。それがなかったら、一生涯、人から「あれせい、これせい」と言われんと、生きていけんようになります。
信念とはつまり、仕事に魂が入っている、ということですな。
まさに生涯現役ですね。
喜芳:はい。死ぬまで仕事ですね。
ばたっと倒れるその時まで、仕事をしていたいと思います。やっぱり、一つのことを貫くということが、人間にとって一番大切なことなんじゃないですか。
でもいまの人は、お金の儲けのいいほうへ、いいほうへと傾いていきますやろ? 実入りがちょっと少なくなったら、すぐに他へと移ってしまう。
だからやっぱり祖母が教えてくれたように、心棒の棒を折らんことですね。その棒を折ったら、なんぼ若うても、年寄りでもあきませんわ。 棒を折ったら、三文の値打ちもない。
幼い頃、祖母が私に懇々と言って聞かせてくれたことが、私を今日まで導いてくれた。
そんなふうに感じています。
是非一度お気軽にお問い合わせいただき、京念珠をお手に取ってご覧いただけますと幸いで御座います。
季節によって取り扱っているお念珠が異なります。季節の珠や房をメインのラインナップの念珠に取り入れています。
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喜芳直伝の技術を受け継いだ職人がお一人おひとりのご要望を具現化します。
関西一円であればサンプルをお持ちしてお話しをお伺いさせて頂きます。 名古屋と富山には隔月で担当者が参りますので、直接お会いしてお話しさせて頂くことが可能です。
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