鍛え抜かれた技術力と、喜芳が仕立てる京念珠の独自性が評価され、京都の京念珠師としてはじめて、平成16年に「京都府伝統産業優秀技術者」に認定されました。
「どんな難しい数珠でも、全部頭の中に入ってます。
誰にも負けないいい仕事ができるという信念がありますから。私のする仕事に勝つ人はおへん。
やっぱり、一つのことを貫くということが、人間にとって一番大切なことなんじゃないですか。」
府内の伝統産業に従事し、優れた技術をもって、多年にわたりその振興と発展に寄与した者に付与されます。
認定された名工は、年に一度、京都府主催で開催される「京の名工展」に趣向を凝らした作品を出展します。
大正9年京都府生まれ。13才で念珠屋へ奉公に入り、以来、念珠作り一筋に歩む。
平成16年に京都府伝統産業優秀技術賞を念珠師として初受賞。
2017年2月現在、念珠師として「京都府伝統産業優秀技術賞 」を受賞した技師は、喜芳を含めてたった3人。
名工として、平成18年~平成26年まで名工展に創作念珠を出展しており、その独自性は分野内外から高く評価された。
平成25年に死去。倒れる寸前まで念珠を作り続けた。
喜芳の技術と想いは、喜芳工房の職人たちに受け継がれている。
祖母はよく「私が早く死んだら、数珠屋さんに奉公して仕事を習いなさい。数珠の作り方を覚えておけば、ちゃんと食べていける。生活していけるようになる」 と言いました。私が小学六年生の時、祖母が事故で亡くなって、身寄りがなくなった私は数珠屋さんへ奉公することになりました。まだ十三歳の時でしたが、私は一途で、他の事はなんにも考えませんでしたね。
奉公はそれから五年間したんですが、その時分の苦労といったら、働く時間が十六時間ぐらいあったことです。朝八時から晩の十二時頃までぶっ通しで、休憩なんてものはない。
手編みをしている手は荒れてくるし、年がら年中血だらけでした。でも、もう仕事ができせん、と言ったところで、主人は聞いてくれるはずもない。そんなもん、誰かて割れるもんや、てなもんですわ。
私が三十代の頃、遠くのあるお得意先から「二週間で一万三千連の念珠を作ってほしい」と言われたことがありました。一万三千といえば、大変な数です。
でも当時は一緒にやっている人も五人いましたし、一人が一日に二百か三百仕上げたらできると思って、「任してください」と二つ返事をしたんです。
でも、これにはあの喧し屋の社長も驚いて、「そんな返事の仕方をして、大丈夫なんか?」と言わはりますからね。「でも社長。そんなことようしませんわ、と言って渋々引き受けたら、できますか。及び腰ではできるもんもできませんわ」と答えましてね(笑)。これには返す言葉もなかったようで、全面的に任してくださいました。
その間、他の数珠屋さんからは「陣中見舞い」といって、菓子とか果物が次々と届きました。できんかったら、京都の名折れになるさかいに、どうか頑張ってくれと。
私も「できる」と言ったからには、どんなことをしてでもやろう、と。それで期日どおりにちゃんと仕上げて、板倉に頼めばなんでもできる、という評判をとったんです。